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中国建国記念日「国慶節」祝賀と、毛沢東没後に時間を逆行して強調される「抗日戦争勝利記念式典」の比較
1949年10月1日を建国記念日と指定した中国の「国慶節」(写真:ロイター/アフロ)

今年もまた中国の「国慶節大型連休」がやってきた。日本では「国慶節」と聞くと「日本への観光客数」を連鎖反応的に思い浮かべるようだが、この日は中国の建国記念日だ。1949年10月1日に、毛沢東が天安門楼閣で「中華人民共和国(現在の中国)の誕生」を宣言した日を以て「建国記念日」とし、「国慶節」と称している。

毛沢東時代は国慶節だけを祝賀し、抗日戦争勝利日など祝ったこともないのに、1995年に江沢民が「抗日戦争・反ファシスト戦争勝利記念日」を全国規模で始めてからは、国家全体として、突如「抗日戦争勝利」が前面に出るようになった。本稿では、1945年の抗日戦争勝利が、時間と逆行して強調されていく様を、国慶節と比較して考察する。

◆中国建国以来の国慶節祝賀式典と抗日戦争勝利式典の推移

いま習近平政権が何をやっているのかを視覚化するために、図表1に共産中国建国以降の国慶節祝賀式典と抗日戦争勝利式典の一覧表をまとめてみた。

図表1:中国建国以来の国慶節祝賀式典と抗日戦争勝利式典の推移

建国以来の基本情報に基づき筆者作成

図表1から明らかなように、毛沢東は生涯一度たりとも、「抗日戦争勝利」を祝賀したことなどない。ただ単に1945年8月15日に日本が降伏宣言をすると、日ソ中立条約を破って日本敗戦間際に慌てて参戦したスターリンに祝電を送っただけだ。それもスターリンは1953年に他界しているので、祝電さえ、その辺りで終わっている。

なぜ毛沢東がそこまで抗日戦争勝利を祝賀しなかったかと言うと、「大日本帝国」が戦っていた相手国は、最大の政敵・蒋介石が率いる「中華民国」だったからだ。「勝利したのは蒋介石」なので、毛沢東としては「非常に嬉しくなかった」のだろう。かつて毛沢東の近くにいて、のちに離れた軍人の一人は回想録で、毛沢東が日本敗戦を知り、「日本がもう少し(あと2年くらいは)頑張ってくれれば良かったのに。そうすればわれわれはもっと力を蓄えることができたのに…」と日本敗戦を残念がったと書いている。この記述は複数ある。どこまで真実かは分からないが、それくらいは言いそうなくらい、毛沢東は「日本に降伏宣言などしてほしくなかった」のは確かだろう。9月10日の論考<1940年「台湾軍事機密情報」が日本に与える教訓 「中共軍と日本軍の結託」と「日ソ中立条約の予兆」>の図表3に書いたように、何と言っても毛沢東は盛んに「蒋介石が日本に投降しようとしている」とモスクワに訴え続けていたくらいだ。それが逆になったのだから、それまでの主張も正当性がなくなり、なおさらのこと面白くなかったにちがいない。

図表1の左側の欄をご覧いただくと、建国後は毎年のように建国記念日・国慶節の大祝賀を非常に盛大に行っている。吉林省にある延辺地区の延吉市にいても街を銅鑼や太鼓あるいは秧歌(ヤングァ)という踊り付きで一般庶民が祝賀のデモ行進をしたり爆竹が鳴ったりと大変なものだった。天津市では小学校で祝典があり、小学生も祝賀のデモ行進に参加し、「毛主席万歳!」とか「中国共産党万歳!」を叫ばされたものだ。「没有共产党就没有新中国」(共産党がなかったら新中国はなかった)という歌もデモ行進をしながら歌わされた。街中のスピーカーが毛沢東の演説や歌などを流し続けて煩いほどだった。テレビなどはないから天安門広場での閲兵式の様子を観ることはできないが、それが分かるように街のラジオ放送は大歓声を放送し続けた。

あまりに膨大な費用がかかるので節約をしようと、1960年9月に中共中央・国務院は「五年一小慶、十年一大慶、逢大慶挙行閲兵」(5年に一回の小規模式典を行い、10年に一回の大規模祝典を行い、大規模祝典の時には閲兵式を挙行する)と決めた。その最初の「五年一小慶」の1964年には、毛沢東は国家主席から降りていた。大躍進が招いた大飢饉の責任を取る形で1959年に国家主席を辞め、その後劉少奇が国家主席になっていたので、国慶節の祝賀どころの騒ぎではない。すでに文化大革命(文革)ムードに入っており、小規模祭典も挙行されていない。

だというのに図表1の右欄にあるように、林彪が1965年に抗日戦争勝利20周年記念を記念する文章を「人民日報」に掲載し、かつ北京の人民大会堂で抗日戦争勝利20周年記念集会を開いたというのだから、危険なシグナルがすでに灯っていた。

もちろん毛沢東は出席していない!

その翌年から始まった文革で林彪批判が激しくなっていくのも当然のことだろう。林彪は毛沢東を暗殺しようとクーデターを起こすが失敗して逃亡中の飛行機事故で死亡した。

1975年の9月3日に「人民日報」が抗日戦争勝利30周年記念の社論を掲載したのも異様だ。もう毛沢東の寿命があまり長くないことを察知してのことで、抗日戦争勝利記念に関して論ずることは、すなわち「反毛沢東」であることを意味する。

毛沢東没後の1985年の抗日戦争勝利40周年記念日には、鄧小平が「人民日報」に社論を掲載することを許可し、「抗日戦争に国民党軍も(いくらかは)貢献した」と認めた。台湾統一を睨んでのことだった。

前掲の9月10日の論考<1940年「台湾軍事機密情報」が日本に与える教訓 「中共軍と日本軍の結託」と「日ソ中立条約の予兆」>や9月26日の論考<1941年5月25日、毛沢東「中国共産党は抗日戦争の中流砥柱(主力)」と発言 その虚構性を解剖する>などで述べたように、毛沢東は蒋介石に勝利するために「国民党軍は抗日戦争に寄与していない」という偽のスローガン、プロパガンダを強烈な手段で用いていたからだ。それを始めて否定した。

しかし、1995年、事態は一変したのである。

◆時間に逆行して、突如、強調され始めた抗日戦争勝利記念日

図表1で1995年の欄をご覧いただきたい。それ以降にある右下の欄は、ちょうど建国以降の左上の欄の塊と良い対照を成している。1995年以降の中国は、もうまるで日本敗戦直後の「中華民国」国民党のように、「抗日戦争勝利」一色に染まっている。

これまで何度も書いたのでくり返したくはないが、江沢民の実父は日本傀儡政権の官吏だったのに、そんな人物が1989年の天安門事件で、突然中共中央総書記に指名され、軍事委員会主席にまでなってしまった。1993年からは国家主席だ。そのころまだ日中戦争時の状況を知っていた党内長老がいて、江沢民の出自を密かに指摘するようになっていた。

折しも、1995年5月に中国共産党の指導者が初めてモスクワにおける「反ファシスト戦争勝利50周年記念」に招待され、江沢民の虚栄心を激しくくすぐった。それをヒントに江沢民は同年の9月3日から、初めて「全国性で大規模」な「抗日戦争勝利記念大式典」を「反ファシスト戦争勝利」と結びつけて開催したのである。

それと同時に「愛国教育」を「反日教育」へとシフトさせて、「自分がいかに反日であるか」を強調することによって、出自の秘密薄めようと必死になった。

そのような反日感情を扇動されたからには、習近平としてはもう後に引くわけにはいかない。そうでないと売国奴と罵られることになる。だから、これでもかこれでもかと抗日戦争勝利記念を盛大にさせ、軍事パレードを添えることによって、「ほら、俺の方が反日だ」と中国人民に見せて求心力を高めようとして、こんにちに至っている。

◆1990年代まで中国の若者は日本大好きで熱狂的だった 身元保証人制度撤廃に奔走

江沢民の個人的な理由以外に、「反日的」になる要素は国際情勢の中にはなかった。特に日中関係においては70年代末に改革開放が始まり80年代初頭に鉄腕アトムが大陸上陸したのをきっかけに、日本のアニメや漫画、あるいは映画やテレビドラマなどが中国大陸を席巻して、中国人留学生は「われもわれも」と日本をめがけて突進してきた。

しかし、文化大革命で高等教育機関が閉鎖されていたために学歴に関して日本の大学や文部省あるいは法務省で邪険に扱われ、自殺する者までが続出。たまりかねて筆者は単独北京に飛び、国家教育部に乗り込んで直談判し『中国大学総覧』を著した(1991年)。すると日本全国の大学だけでなく、(当時の)文部省も法務省も拙著に基づいて入国や入学審査をするようになり、やがて法務省の出入国管理局の「就学生受け入れ問題懇談会」のメンバーとして入国審査基準に関する審議を行った。そこで筆者が提案したのが「身元保証人の撤廃」である。

図表2にあるのが、当時の筆者の主張で、これを入国管理局の懇談会で入管局長などの前で提案し、それが決議されて、入国審査のための身元保証人制度が撤廃されたのである。

図表2:身元保証人制度を撤廃に持って行った筆者の主張

サンケイ新聞の切り抜き

法務省の入国審査の際の身元保証人制度撤廃には成功したが、文部省サイドの身元保証人制度はまだ撤廃されておらず、入国できても大学や日本語学校に入学するときに要求されるので、文部省にも身元保証人制度を撤廃させるべく、図表3にあるように、「法務省、文部省、外務省」の3省代表を呼んで1997年にシンポジウムを開催し、文部省サイドが要求していた身元保証人制度撤廃にも漕ぎつけることに成功した。

図表3:全ての行政省庁の身元保証人制度撤廃のために開催したシンポジウム

筆者が主催したシンポジウムの表紙

表紙冒頭にある「留学生教育学会」というのは筆者が1995年に創立させた学会だ。

国立大学だけでなく、私立大学も専門学校も、そして日本語学校関係者も一緒になって、留学生が抱える諸問題を解決し、「留学生の世話」を、学問として高めていくべきだと考えて、創立のためにも奔走した。国立大学の教官の中には、「専門学校や日本語学校の教員と同じテーブルに着くわけにはいかない」という傲慢な輩がおり、徹底して邪魔されたが、それでも「中国人留学生のためなら」と、あの頃は、必死だった。

当時はまだ心ある留学生たちが多く、日中間には温かなものが流れていた。

そこに突如、「抗日戦争を思い出そう!」などというスローガンを掲げて中国という国家を導いていく必然性は皆無だったはずだ。唯一あったのは「江沢民の私利私欲」だけである。

それ以外にない!

1989年の天安門事件では、主としてアメリカのヒッピー文化などカウンターカルチャーに染まった若者が多かったのであって、日本の文化は「民主化運動」などに誘(いざな)う要素はなかった。天安門事件後、「中国にも良い伝統文化がある」として鄧小平が「愛国主義精神」を培い始めたのはまだわかるが、それを「反日教育」へと持って行く必要性は皆無だったはずだ。

天安門事件後の西側諸国による厳しい対中経済制裁をイの一番に解除したのは日本であり、1992年には天皇陛下訪中という江沢民の強い要望さえ実現させてあげたではないか。「それさえ実現させてくれれば、中国は今後、日本の中国侵略を非難したりしない」とさえ約束しておきながら、江沢民はその約束を破って自分の身を守る選択をした。反日的な一家であったという出自をごまかすために、約束を破り反日というパンドラの箱を開けてしまったのである。

日本は「国慶節」と聞くと、日本のどの県の人気が一番高いかなど、中国人観光客の話題で賑わうが、そのような皮相的なことばかりに目を奪われず、中国の真相を直視する勇気を持つ人が増えることを願ってやまない。

この論考はYahoo!ニュース エキスパートより転載しました。

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。「中国問題グローバル研究所」所長。筑波大学名誉教授、理学博士。内閣府総合科学技術会議専門委員(小泉政権時代)や中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『米中新産業WAR』(ビジネス社)(中国語版『2025 中国凭实力说“不”』)、『嗤(わら)う習近平の白い牙――イーロン・マスクともくろむ中国のパラダイム・チェンジ』(ビジネス社)、『習近平が狙う「米一極から多極化へ」 台湾有事を創り出すのはCIAだ!』(ビジネス社)、『習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン』(PHP新書)、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』(実業之日本社)、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略 世界はどう変わるのか』(PHP)、『習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』(ビジネス社)、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』(遠藤 誉 (著), 白井 一成 (著), 中国問題グローバル研究所 (編集)、実業之日本社)、『米中貿易戦争の裏側 東アジアの地殻変動を読み解く』(毎日新聞出版)、『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』(中文版・韓国語版もあり)、『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』、『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。 // Born in 1941 in China. After surviving the Chinese Revolutionary War, she moved to Japan in 1953. Director of Global Research Institute on Chinese Issues, Professor Emeritus at the University of Tsukuba, Doctor of Science. Member of the Japan Writers Association. She has served as a specialist member of the Council for Science, Technology, and Innovation at the Cabinet Office (during the Koizumi administration) and as a visiting researcher and professor at the Institute of Sociology, Chinese Academy of Social Sciences. Her publications include “2025 China Restored the Power to Say 'NO!'”, “Inside US-China Trade War” (Mainichi Shimbun Publishing), “’Chugoku Seizo 2025’ no Shogeki, Shukinpei ha Ima Nani o Mokurondeirunoka (Impact of “Made in China 2025” What is Xi Jinping aiming at Now?), “Motakuto Nihongun to Kyoboshita Otoko (Mao Zedong: The Man Who Conspired with the Japanese Army),” “Japanese Girl at the Siege of Changchun (including Chinese versions),” “Net Taikoku Chugogu, Genron o Meguru Koubou (Net Superpower China: Battle over Speech),” “Chugoku Doman Shinjinrui: Nihon no Anime to Manga ga Chugoku o Ugokasu (The New Breed of Chinese “Dongman”: Japanese Cartoons and Comics Animate China),” “Chugogu ga Shirikonbare to Tsunagarutoki (When China Gets Connected with Silicon Valley),” and many other books.
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