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習近平はなぜ香港国家安全維持法を急いだのか?
香港国家安全維持法の目的は外国籍裁判官の無力化(写真:ロイター/アフロ)
香港国家安全維持法の目的は外国籍裁判官の無力化(提供:ロイター/アフロ)

習近平が国際社会からの非難を承知の上で突き進むのは父・習忠勲のトラウマがあるからであり、来年の建党百周年までに香港問題を解決したいからだ。民主運動が大陸に及ぶのを避けるためなどという現実は存在しない。

◆香港国家安全維持法の目的は外国籍裁判官の無力化

2020年6月30日に全人代常務委員会で可決された「香港維護国家安全法」は、その日の夜11時から発効し、香港で実施されることとなった。日本語的には「香港国家安全維持法」と訳すのが通例になっているので、ここでもその名称を使うこととする。

同法は大きく分けると、「国家分裂罪、国家転覆罪、テロ活動罪、外国勢力と結託し国家安全を害する罪」の4つから成り立っているが、中でも注目しなければならないのは第四十四条である。第四十四条には以下のような趣旨のことが書いてある(概要)

  • 香港特別行政区行政長官は、全てのレベルの裁判所の裁判官の中から、若干名の裁判官を選び、国家安全に危害を及ぼす犯罪の処理に当たらせる。
  • 行政長官が指名した裁判官の任期は1年とする。
  • 裁判官の任期内に、万一にも裁判官が国家安全を侵害するような言動をしたならば、直ちに国家安全担当裁判官の資格を剥奪する(筆者注:もし任命した裁判官が不適切だった場合は他の裁判官を指名することができるようにして、北京の意向通りに判決を出す裁判を常に執行させる。だから任期も短い)。
  • 国家安全犯罪に関する裁判は国家安全犯罪担当裁判官が審議する(筆者注:外国籍裁判官に民主活動家の裁判を担当させない)。

これは何を意味しているかというと、これまで何度も(これまでのコラムで)書いてきたように、香港は中国に返還されるに当たって、イギリス統治時代に使ってきたコモンロー(英米法)を採用することになったため、司法もコモンローに従い裁判官もトップ以外は外国籍でも構わないことになっている。最高裁判所も高等裁判所も、かつてのコモンウェルス(イギリス連邦)の国々(イギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど)の国籍の裁判官によって構成されている。

だから民主活動などによって逮捕されても、裁判ではせいぜい1ヵ月ほどの懲役刑が科せられるだけで、まるで小旅行にでも出かけたような爽やかな顔をして出所してくる。

そのため昨年は逃亡犯条例改正案を香港政府に出させて中国本土で裁判にかけようとしたが、激しい抗議に遭い廃案になってしまった。

そこで今年は、全人代常務委員会が香港の司法を実際上は直接管轄するような形にしてしまった。司法におけるコモンローの弊害(西側諸国にとってはメリット)から逃れようとしたのが、今般の香港国家安全維持法の目的なのである。

懲役刑として最高刑で無期懲役まで許されるように定めていることからも、その目的は明らかだ。

◆習近平の父・習忠勲のトラウマから逃れるために

これらは全て、習近平の父・習忠勲が残した負の遺産からの脱却であることも見えてくる。6月18日付のダイヤモンド・オンライン「中国コロナ批判の逆風下、習近平が香港統治をゴリ押しする隠された理由」でも詳述したが、香港返還に当たり、コモンローを受け入れると最初に言ったのは習近平の父・習忠勲だ。1983年のことである。

習近平にはその負い目があり、自分が国家主席である間にコモンローであるが故の司法の問題を何としても解決したいと思っている。次期指導者の政権まで未解決のまま残すと、今は亡き父親が又もや批判の対象となるかもしれないと恐れている。何と言っても父親は毛沢東によって反党分子のレッテルを貼られ、16年間も牢獄生活を送った歴史(冤罪ではあっても「前科」)を持っている。

だから習近平は一歩も譲らない。

◆来年は建党百周年記念

香港が中国に返還されたのは1997年7月1日だが、この日は中国共産党建党記念日でもある。だから最初から中国共産党の枠組みの中に置かれることが前提となっている。

その証拠に香港基本法には「基本法は全人代常務委員会が最終的に管轄する」ということが明記されており、全人代常務委員会が決定した事項は基本法付属文書三に書き込んでいいことが条文で規定されているのだ。

したがって、今般の香港国家安全維持法は「合法的」であると言えるように、最初から仕組んである。まるで忍者のからくり細工だ。

今般の動きを「コロナのドサクサに紛れて」という人がいるが、この法改正は昨年10月末に開催された四中全会(中共中央委員会第四回全体会議)で決議されている。コロナがなければ今年3月5日に開幕したであろう全人代の最終日に議決したはずだ。

来年は建党百周年記念となる。

この大きな節目までに習近平としては何としても香港問題(コモンローによる外国籍裁判官問題)を解決したいと思っていた。特に今年の9月には香港立法会の選挙があるので、それまでに間に合わせたいという目論見もあった。

◆一国二制度は「社会主義体制」と「資本主義制度」

少なからぬ人が「一国二制度」の中に「民主主義」とか「高度の自治」とかが含まれていると勘違いし、「一国二制度は終わった」とよく言うが、これは正確ではない。

「二制度」とは「社会主義制度(大陸)」と「資本主義制度(香港)」のことを指す。

トウ小平とサッチャーが初めて香港返還に関して話し合ったのは1982年。

資本主義に走る人民を「走資派」と批判して投獄した文化大革命(1966年~76年)が終わってから、まだあまり時間が経っていなかった。だから資本主義制度の下に、いくら金儲けに走っても逮捕しませんよという証拠に、香港に資本主義制度を認めた。

今も香港には資本主義制度が厳然と存在しており、もし「一国一制度」になったと言うのなら、大陸の方が「国家資本主義」になったので「一制度になってしまった」ということなら納得できる。

「二制度」にある「香港の資本主義制度」は全く変わっていない。

香港の高度の自治を守るという原則は基本法に書いてある。

そしてこの基本法は全人代常務委員会の管轄下にあると規定されているのである。

西側諸国はむしろ、中国のこの周到さを警戒した方がいい。

◆香港の民主運動は中国の若者に影響を与えるか

日本の評論家の中には、習近平が香港国家安全維持法制定を急いだのは「香港の民主運動の気運が広東や上海に浸透して中国大陸の民主運動を刺激するのを防ぐためだ」「習近平はそれを恐れている」と言っているのを知って大変驚いている。

あまりにも中国の現実を反映していないからだ。

7月に入ってから中国の若者数名を取材した。

「香港の民主運動が大陸の若者の民主運動を刺激しますか?」と聞いたところ、みな異口同音に否定した。

  • 民主主義の何がいいんですか?
  • 民主主義国家の砦としてのアメリカは、今どんな風になっていますか?人種差別への抗議運動に対して、トランプは「いざとなったら軍隊を出動させる」と脅しているし、コロナの感染といったら、1日の新規感染者数が5万人を超え、全体の感染者数は300万人に達しようとしている。死者だって12万人を超えているでしょ?大統領選挙のために国民の健康を犠牲にしている。それでも民主主義がいいんですか?
  • 日本だってそうでしょ?安倍晋三は選挙のために多くの不正をやっている感じで、国民の税金を特定の個人のために使ってるんじゃないんですか?それも選挙のためでしょ?民主主義って、何かいいことありますか?
  • 現に中国の庶民が自分の財産を蓄えたのは、民主主義のお陰じゃないですよ!今の指導体制の中で自由に商売やっていいからリッチになっただけで、僕たちは民主主義の国家に爆買いに行って民主主義国家を潤している。民主主義の国家は僕らがいないと困るんじゃないんですか?

「じゃあ、言論の自由とかは求めないの?」と聞くと、以下のような回答が戻ってきた。

  • そうですね、それは多少ありますね。ネットでうまく情報が取れないという不便さは確かにあります。でもそれも娯楽に関する情報を求める若者とかが多くて、そのためのソフトとか手段は色々ありますから、そんなことのために政権を倒そうとかって思う人はいないでしょう。そんなことに人生の貴重な時間を使うのはもったいないです。
  • 大陸にも少数の人権派弁護士っていますが、民主化運動って多くの若者がついていかないと成立しません。
  • 香港だって、2047年には必ず中国本土に完全に返還されるんだから、それまでの民主とか自由とかって、どういうメリットがあるのか正直よく分かりません。

たしかに香港の貧富の格差は激しく、貧乏な者は一生涯努力してもリッチにはなれず、富裕層と貧困層の収入には44倍もの差がある。失うものがないということが「せめて尊厳を求めて」という気持ちに拍車をかけているのは否めない。

それに比べて同じ「一国二制度」を実施しているマカオで民主運動が起きないのは、マカオでは貧富の格差がほとんどないだけでなく、一人当たりのGDPは2019年統計で872万円、世界第3位だ。マカオ政府全体がカジノで儲かっているので、毎年一人につき日本円で10万円ほどの現金を配布しており、医療・教育・老後保障などの福祉も非常に手厚い。これでは「民主化しろ!」と叫ぶ若者はいないだろう。国家安全法の導入など、マカオの方から北京に望んだくらいだ。中国に返還された後、カジノにまつわる暴力団の抗争が無くなってカジノを中心とした観光業で繁栄している。

筆者は言論弾圧をする中国と生涯にわたり闘ってきた。食糧封鎖され数十万に及ぶ餓死者を生んだ事実(1948年)を中国が認めないからだ。認めないだけでなく、中国共産党にとって不利な事実を書いた者は罪人となる。

この中国と闘うには、民主主義の良さを発揮していくしかないだろう。民主主義国家が連帯を強めることだ。日本人にとっての「希望的危惧」などは役に立たない。

まず日本に出来ることは「絶対に習近平を国賓として来日させない」ことを死守することだ。

言葉で「遺憾」など言っても、相手は痛くもかゆくもない。そのことを肝に銘じるべきだろう。

(本論はYahooニュース個人からの転載である)

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。「中国問題グローバル研究所」所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『習近平が狙う「米一極から多極化へ」 台湾有事を創り出すのはCIAだ!』(ビジネス社)、『習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン』(PHP新書)、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』(実業之日本社)、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略 世界はどう変わるのか』(PHP)、『裏切りと陰謀の中国共産党建党100年秘史 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』(ビジネス社)、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』(遠藤 誉 (著), 白井 一成 (著), 中国問題グローバル研究所 (編集)、実業之日本社)、『米中貿易戦争の裏側 東アジアの地殻変動を読み解く』(毎日新聞出版)、『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』(中文版・韓国語版もあり)、『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』、『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。2024年6月初旬に『嗤(わら)う習近平の白い牙』(ビジネス社)を出版予定。 // Born in 1941 in China. After surviving the Chinese Revolutionary War, she moved to Japan in 1953. Director of Global Research Institute on Chinese Issues, Professor Emeritus at the University of Tsukuba, Doctor of Science. Member of the Japan Writers Association. She successively fulfilled the posts of guest researcher and professor at the Institute of Sociology, Chinese Academy of Social Sciences. Her publications include “Inside US-China Trade War” (Mainichi Shimbun Publishing), “’Chugoku Seizo 2025’ no Shogeki, Shukinpei ha Ima Nani o Mokurondeirunoka (Impact of “Made in China 2025” What is Xi Jinping aiming at Now?), “Motakuto Nihongun to Kyoboshita Otoko (Mao Zedong: The Man Who Conspired with the Japanese Army),” “Japanese Girl at the Siege of Changchun (including Chinese versions),” “Net Taikoku Chugogu, Genron o Meguru Koubou (Net Superpower China: Battle over Speech),” “Chugoku Doman Shinjinrui: Nihon no Anime to Manga ga Chugoku o Ugokasu (The New Breed of Chinese “Dongman”: Japanese Cartoons and Comics Animate China),” “Chugogu ga Shirikonbare to Tsunagarutoki (When China Gets Connected with Silicon Valley),” and many other books.

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