中国がコロナから抜け出せたのは一党支配体制だからだという側面は否定しないが、しかしそれより大きいのは鍾南山という「体制に屈しない気骨の免疫学者」がいたからだ。ウイルスの前に一党支配体制はむしろ脆弱だ。
◆権力に屈しない鍾南山の気骨
中国における免疫学や呼吸器学などの最高権威である鍾南山は、1936年10月20日に江蘇省の南京市で生まれた。1960年に北京医学院(現在の北京大学医学部)を卒業し、文化大革命時には下放され、文革が終わった1979年にイギリスのエディンバラ大学に。1992年から広州医学院院長(現在の広州医科大学学長に相当)などを務めた。
父親は北京協和医学院とニューヨーク州立大学を卒業し、広東省の中山医学院の教授になり、母親も協和医科大学を卒業後、広東省で華南腫瘍医院を創設し副院長を務めたが、文化大革命で知識人として糾弾され自殺している。
このことが大きな原因の一つになっているのだろう。鍾南山は「反体制」とまでは言わないにしろ、体制におもねることがない。2002年に発生し、2003年に大流行したSARS(サーズ。重症性呼吸器症候群)の時には、感染の中心地となった広東省で広州市呼吸器疾病研究所の所長として異常を察知し、SARSの脅威を隠蔽しようとする江沢民政権に対して異議を唱え、事態の深刻さを訴えた。結果、SARSの(あれ以上の)拡大を抑えることに成功している。
以来、民族の英雄として人民の尊敬を集めている。
◆鍾南山が提案した緊急コンテナ病棟が中国を救う
今般の新型コロナウイルス肺炎に関しても、1月24日の<新型コロナウイルス肺炎、習近平の指示はなぜ遅れたのか?>に書いたように、1月19日に鍾南山は国家衛生健康委員会ハイレベル専門家チームの代表として武漢の病院を視察した。武漢政府を信じていなかったので病院に行ったというのがキーポイントである。そこで「人から人への感染」があることと、「これはSARS以上の危機をもたらすかもしれない」と一瞬で見抜き、李克強(国務院総理)に知らせたことから、習近平(国家主席)の知るところとなり、1月20日に習近平に「重要指示」を出させるに至った経緯がある。
そのころ習近平はのんびりとミャンマー訪問や雲南の春節巡りなどをしていたのだから、話にならない。鍾南山の緊急要請がなかったら、コロナ被害は現在の何倍に拡大していたか、収拾がつかない状況になっていただろう。
武漢から爆発的に湧き上がる感染者の全国拡散を食い止めるには、先ず武漢を封鎖すること。そのアドバイスも直接李克強に与え、李克強から習近平に伝えられて断行に至った。
しかし溢れ出る患者の数と病院のベッド数がバランスを崩すと医療崩壊を起こす。
そこで何が何でも医療従事者と医療施設を火急速やかに整備しなければならないと陣頭指揮を執ったのも鍾南山だ。SARSの時に北京に作らせた方艙(ほうそう)医院(野外病院のような緊急対応のコンテナ病院)である小湯山と同じ発想のものを武漢に突貫工事で作らせた。
最初は重症患者を入院させる火神山医院と雷神山医院を10日間ほどで建ちあげ、軽症患者には自宅隔離を命じたが、自宅にいて家族に感染させたり、全く外出しないというわけにはいかないので周辺住民にも感染が広がったり、軽症者が重症化するケースも目立った。
これでは感染は防げないということで、方艙医院を増築させ、16棟にまで至っている。それでも足りずに体育館や市民会館など使えるものは全て使って患者を全て収容した。重症化した場合も対応がスムーズにいった。
そしてマスク着用、アルコール消毒などを市民に徹底させ、未感染者に感染することを防ぎ、徹底した「早期発見」と「早期治療」を可能ならしめるために、ともかく検査キットの緊急な充足を断行させた。
◆医療従事者の確保「一省包一市」を提案
しかし何万人といる患者を誰が診るのかという問題が当然起こる。
そこで着想したのが3月15日の<欧州などに医療支援隊を派遣する習近平の狙い:5Gなどとバーター>に書いた「一省包一市」方式である。感染者は武漢市から湖北省全体に広がっていたので(湖北省もほぼ封鎖に近い隔離状態になっていたが)、中国全土の19の省(直轄市・省・自治区)から医療支援部隊を湖北省の16の地区にそれぞれ派遣して医療体制を補完し構築したのである。武漢市には全国の医療部隊が集中的に派遣されており、人民解放軍の医療部隊も総動員された。その数は2月28日の時点で総計4万人強である。
◆「習近平の権威」と「鍾南山の実力」との関係
習近平としては鍾南山が「民族の英雄」として人民の尊敬を集めるのは面白いことではないが、しかしウイルスによって一党支配体制が崩壊してしまうのは最も恐れていることである。ウイルスが蔓延すれば、一党支配体制は間違いなく崩壊する。民主主義国家ではないので、中国共産党の政権が崩壊すれば、政権交代ではなく、「国家が崩壊する」。それが一党支配体制の脆弱性だ。
そこで鍾南山のアドバイスと提言を最大限に活用しながら、「それはこの俺が決意し断行したことだ」と「他人の業績を自分のものとして自慢している(摘桃子)」わけだ。
この「他人の業績」の「他人」は李克強だろうと思われがちだが、これは2月10日の<新型肺炎以来、なぜ李克強が習近平より目立つのか?>に書いたように、習近平がミャンマー訪問や雲南の春節巡りなどをしていたために李克強が北京にいて「留守を守っていた」だけであって、李克強自身に功績があったというわけではない。中国人民の命を守るために貴重なアドバイスをし続けたのは鍾南山で、鍾南山は国家衛生健康委員会が「ハイレベル専門家チーム(専家組)」のトップ(組長)で、国家衛生健康委員会を管轄しているのは孫春蘭国務院副総理で、その上司が李克強(国務院総理)だという流れ図にあるだけのことである。
おまけに李克強は「新型コロナウイルス肺炎防御抑制領導小組(指導グループ)」の組長(トップ)なので、鍾南山は李克強の指導グループにも常に参考意見を具申する立場にあり、習近平に直接話をするのは職位の順番から言って、あくまでも李克強である。
但し、中国で最高レベルを保つ人民解放軍の医療部隊は、習近平が司る中央軍事委員会を通して、その系列から派遣されている。
◆任務を終え撤退
<欧州などに医療支援隊を派遣する習近平の狙い:5Gなどとバーター>に書いたように、方艙医院は3月14日には役割を終えて閉鎖され、また全国から集まった医療支援部隊は、3月18日に最後のチームが撤退し、武漢はコロナ発生前の医療体制に戻った。
3月16日現在で、まだ病院に残っている患者数は中国全土で8,976人で、治癒して退院した患者数は68,679人。それも病院で治癒したと診断された後に、さらに2週間は隔離するという手法を取っているので、今では再感染はほぼいなくなっている。そのシステムを作ったのも鍾南山だ。
◆海外からの「逆輸入」
いま問題になっているのは、欧州など海外の感染率が高いために、それまで中国から逃れていた海外移動者たちが中国に戻り始めたという「逆輸入」現象が起き始めていることである。数日前までに新規感染者数が中国全土で1桁にまで減って、これで中国は完全に「脱コロナ化」ができたと胸を張っていたのだが、一昨日辺りから突然「帰国者による再拡大」現象が起き始めている。
そこで3月17日、中国政府は「北京空港はいかなる国際便の着地も許さない」ことを決定した。18日から中国に入る国際便は全て、北京以外の空港で乗客を降ろすことにし、かつ乗客は必ず14日間の隔離を強要される。そうしてでも、感染者の再燃を防ぐことに必死である。
◆ハイレベル専門家チームも解散
鍾南山があまりに体制側に毅然と立ち向かうため、遂に「国家衛生健康委員会ハイレベル専門家チームのリーダーの職を解任された」という趣旨の情報が、大陸外中文報道に見られるようになった。しかし、湖北省、特に武漢市のコロナに対する「ハイレベル専門家チーム」はあくまでも臨時的な組織で、その役割は終わったというだけのことである。このチームも解散し、国務院の下で科学技術部が主導する「新型冠状病毒感染的肺炎疫情聯防聯控工作機制科研攻関専家組」という長い名前の専門家チームなどは残っており、鍾南山はそのリーダーを務めている。
鍾南山が、中国疾病預防控制中心(CDC)などにもっと大きな行政権を与えないとウイルス感染などの早期発見や迅速な初動は難しいという提言をしたので、それが機能しているわけだ。
海外中文情報にある「中共は鐘南山を頼って利用しているが、 鐘南山は中共にとって意のままにコントロールできる都合のいい人物ではない」という趣旨の記事からも、彼の姿勢が窺われる。
◆鍾南山を中傷する記事
中国大陸以外の某中文メディアでは、「鍾南山氏の名義で3つの会社が登記されており、息子はエルメスのベルトをしている」などという、鍾南山を誹謗する記事があるが、鍾南山ほどの地位にあれば、会社の一つや二つを持っているのは普通のことだ。彼が行政側の人間であるなら話は別だが、彼は権力を嫌うので自由に生きている。ただ疾病に関する事業に従事しているだけで、何ら責められるべきものはないだろう。
エルメスのベルトにしてみたところで、3000円で買える偽物であるかもしれず、その誹謗記事では「お坊ちゃまのエルメスベルトが眩しすぎる」とあるが、息子(鐘帷徳氏)自身、れっきとした医者であり大学教授(広州市第一人民医院の教授。泌尿器科の権威)。本物のエルメスベルトだとしても10万円程度だ。
筆者は客観的事実に基づくファクトしか書かないことをモットーとしているが、少しでも中国の「ある要素」を肯定する記事を書くと、すぐに誹謗中傷したがる一部の人たちに、予め鍾南山を誹謗中傷する中文記事の現実をご紹介した次第である。
以上、中国の現状をご紹介したが、中国が完全にコロナから抜け出したか否かは、全人代などの両会が開催される日を見極めてから判断した方がいいかもしれない。
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