
※この論考は9月29日の< China’s WTO Identity Shift: From Developing-Country Privileges to Dual Positioning Strategy>の翻訳です。
2025年9月23日にニューヨークで開催された国連総会の演壇で、中国の李強首相は、今後の世界貿易機関(WTO)の交渉で中国は新たな「途上国」優遇措置を求めないと表明した。この表明は直ちに世界各国の注目を集めたが、これを世界貿易システムにおける中国の役割の大きな転換点と見る向きが多い。中国にとってこの転換は国外に対する宣言というだけでなく、国内向けに立場を再定義することにもなる。中国政府は何十年にもわたり自国を「世界最大の途上国」と位置付け、長期の移行期間や貿易上の義務の緩和、補助金給付の余地を確保してきた。今回、中国は新たな特権を自発的に放棄したが、この動きには国際的圧力と戦略的計算の両方が働いたと考えられる。
2001年から2025年まで:これまでの道のりと役割
今回の決定の意義を評価するには、中国のWTO加盟後の20年余りを振り返らなければならない。2001年の中国のWTO加盟は、中国がグローバル化の転換点として歓迎された。途上国待遇によって、中国は猶予期間の延長や比較的高いレベルの関税保護、優遇産業への政府補助金給付といった恩恵を得てきた。こうした制度的な恩恵に、潤沢な低賃金労働力が加わり、中国は「世界の工場」になるに至った。そしてわずか20年で輸出が数倍に増え、中国経済は世界第6位から米国に次ぐ世界第2位の規模に成長した。
とはいえ、2025年の中国はこれまでとはまったく異なる。グローバルなサプライチェーンの中核を担う産業大国である一方、一人当たりのGDPはタイやメキシコと同水準にとどまり、地域格差や発展の不均衡も残る。こうした二重性が、長年にわたり中国の国際的な立ち位置を形成し、世界の大国というイメージを打ち出しながらも途上国待遇を手放せないでいた。新たな途上国優遇措置を求めないものの、途上国という地位を維持するという李首相の宣言は、このパラドックスを物語っている。今回の表明は、2001年の中国のWTO加盟当時を思い起こさせる。最初の転換点がこの制度への加盟とそこから得られる利益を目的としたものであるとしたら、今回の目的は、この制度内での立場の修正と再定義である。
外部の圧力を受けての現実的な選択
この政策は自ら殻を破ったというより、外部の制約に対する現実的な対応という面が大きい。トランプ政権は2018年に中国に対して大々的な貿易戦争を開始し、WTOの多国間メカニズムを無視して、単独措置で数千億ドル相当の中国製品に関税を課した。WTOの紛争解決システムは機能不全に陥り、WTOルールの執行力が低下した。同時に、米国政府は中国の途上国扱いの正当性に公然と疑問を呈し、中国政府の「二重性」を世界的な論争の火種にした。
第2次トランプ政権下で、この貿易戦争は米国以外にも広がり、世界各国が関税障壁を設ける事態となった。インドやベトナム、インドネシア、ブラジル、トルコ、メキシコが中国製品に高関税を課し、EUやカナダ、オーストラリアも同様の措置を導入している。このような環境では、中国がWTOの優遇措置を受けられるとしても実利はほとんど得られず、特別待遇の要求に固執していては孤立を深めかねない。新たな特権を放棄することで、中国政府は国外からの圧力を軽減するとともに、柔軟性を発揮して制約を戦略的作戦へと変えたのである。
なぜ、今?「世界の工場」のジレンマと国内のボトルネック
今回のタイミングは国内の経済的圧力も反映している。数十年にわたり成長の中核を担ってきたのは、製造クラスターに支えられた「世界の工場」という輸出主導型モデルだ。しかし人口ボーナスの低下や人件費の上昇、貿易戦争後に続く高関税に伴い、製造分野の比較優位性が損なわれた。さらに重要なのは、国内需要では輸出減少分を相殺することが難しくなっていることだ。消費の低迷や脆弱な不動産セクター、地方政府の財政悪化で、中国政府の「国内需要主導型成長」戦略の効果が限定的にしか現れていない。
こうした状況で途上国に認められる便益に執着しても、構造的な制約を解消することはできない。一方、特権を自主的に放棄すれば、中国の国際的なイメージを向上させ、他の領域で影響力を高められる可能性がある。これが意味するところは明確である。「世界の工場」モデルだけを柱として成長を遂げることはもはやできない。中国政府に今求められているのは産業の高度化と技術革新、国内市場の拡大の促進である。このように、李首相の宣言は国外へのアピールだけでなく、経済変革を求める国内の圧力を暗に認識してのものだ。
デュアルポジショニングという戦略的柔軟性
李首相は、中国の途上国としての地位は今後も変わらないと強調した。これは意図的なバランス調整を示している。中国は、責任ある大国というイメージを失いたくない一方で、途上国として得られる政策的配慮も諦めたくない。中国政府は、国外的には責任あるステークホルダーとしてのイメージを打ち出すことができ、国内的にはまだ完全には近代化していないセクターを対象とした優遇措置の維持を正当化できる。
この二重性(デュアルポジショニング)により、中国はその場の状況に応じて立ち位置を戦略的に切り替えることが可能になる。先進国・地域からより多くの責任を負うよう求められれば、中国政府は途上国であることを強調できる。逆に、他の新興国・地域との取引では、支援やインフラ投資を提供する「発展途上大国」というイメージを打ち出せる。こうした柔軟性は、中国が十分な責任を負うことを先延ばしにしながら、グローバルサウスに対し影響力を維持するのに役立つ。つまりこれは貿易であると同時に、アイデンティティ・ポリティクスという政策なのである。
米国に対する外交的シグナル
外交的な計算も働いている。今回の表明を、間もなく行われる「トランプ・習会談」に向けた準備と解釈する向きも多い。トランプ大統領の訪中を促すため、中国政府はTikTok問題での譲歩を示し、米国企業による支配株取得を認めることすらほのめかしている。WTOにおける態度の軟化もまた「和解の申し出」である。米国政府への意思表示であると同時に、国内の政治的圧力を軽減する手段でもある。李強首相が今回表明したことは、外交的課題への対応にあたっての彼の役目と、中国指導部内の役割分担を物語る。
より深く見ると、この動きは米国だけではなく、広く国際社会に向けたものでもある。南シナ海やテクノロジーサプライチェーン、地域の安全保障をめぐり緊張が高まる中、貿易政策で「現実主義的な歩み寄りの姿勢」を示した背景には、どこかで一息つきたいという中国の思惑も垣間見える。米国政府はこれを構造的な変化ではなく、戦術的調整と受け取るかもしれない。中国政府にとってこれは、最も重要な戦略的利益を引き出すために差し出した「小さな譲歩」といえる。
日本の視点と地域への影響
日本にとって、WTOにおける中国の方針転換は経済政策の選択以上の意味を持ち、アジア太平洋地域での制度間競争の再構築を意味する。中国は歴史的に途上国としての地位を利用しながらも、同時に一帯一路やRCEPなどの構想を推し進めて、自らの規範的影響力を拡大してきた。新たな特権を放棄することで、中国政府は地域の枠組みに再び焦点を合わせ、RCEP内での自らの立場を強化するだけでなく、CPTPP加盟への関心を示唆する動きさえ見せた。それにより、新たな形の「制度間競争状態」が生じる可能性もある。日本政府は、RCEPを通じて中国政府が影響力を拡大させることを懸念しているが、中国によるWTOでの態度の軟化を利用して、CPTPPの高水準の規則を強化するかもしれない。
世界第2位の経済大国であり、途上国でもあるという中国の主張には、他の新興国・地域と比べてはるかに大きな戦略的重みがある。自らの二重性が受け入れられれば、中国政府はグローバルサウスに対するリーダーシップを今まで以上に確立し、南南協力とインフラ金融を通じて自らの魅力を高めることができるかもしれない。これは、日本の「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」戦略に、「地域パートナー国が中国の資本・市場に依存している状況にどのように対処しながら、多国間で定めた基準を維持するか」という二重の課題を突きつける。国際関係という観点に立つと、これは単なる経済的調整ではなく「制度的権力」の行使であり、中国政府はアイデンティティを切り替える戦略で大きな交渉力を得ることになる。
結論:新たな転換点
中国が新たなWTO特権を放棄したことは、単なる貿易政策の微調整以上の意味を持ち、国際的なアイデンティティの再定義を意味する。2001年のWTO加盟以降、「世界の工場」として利益を模索してきた中国政府は、2025年にこうした利益の一部を自主的に放棄するに至って、「制度の利用者」から「制度の作り手」へとその姿を変えつつある。それでも矛盾は残る。中国は世界の経済大国でありながら、自称途上国でもあり、大国としての責任と政策の柔軟性維持の両立を図っている。
国際社会の反応は様々である。米国政府はこれを変革ではなく戦術的な動きと解釈し、関税と技術規制を維持する可能性が高い。EUと日本は中国政府の「象徴的な譲歩」を歓迎するかもしれないが、言行が一致するかどうか様子見をしており、慎重な姿勢を崩していない。日本にとってこの譲歩は、多国間協力のきっかけとなると同時に、CPTPPやFOIPの枠組み内で中国が規範的リーダーシップを強化するかもしれないという注意喚起ともなる。
結局のところ、この政策は外国貿易の現状への現実的な対応であるだけでなく、アイデンティティを政治に活用し制度的な力を行使するための再調整でもある。WTOやRCEP、CPTPPにおける中国の「デュアルポジショニング」に、日本などアジア太平洋地域諸国がどのように対応するかがインド太平洋地域の行く末を大きく左右することになる。李強首相の今回の表明は、歴史的な転換点であると同時に戦略の修正であり、グローバル化と脱グローバル化がせめぎ合う中での大国の駆け引きを映し出している。中国が自らの身の丈に合った責任を負いながら成長を維持できるかどうかが、極めて重要な試金石となる。アジア太平洋地域の近隣諸国を中心に、国際社会がそれを注視している。

カテゴリー
最近の投稿
- WTOでの中国の立ち位置に変化:途上国待遇からデュアルポジショニング戦略へ
- 「古~い自民党」を見せつけた総裁選 総理の靖国神社参拝なら自公連立は解消か?
- Strategic Silence: The Messages and Implications of China’s National Day Speech Avoiding the Theme of “Unification with Taiwan”
- 中国建国記念日「国慶節」祝賀と、毛沢東没後に時間を逆行して強調される「抗日戦争勝利記念式典」の比較
- 映画「731」は日本のバイオハザードや韓国のイカゲームのパクリ ビジネス化する反日映画が犠牲者を愚弄
- 自民党と国民党:長い歴史を誇る2大政党で党首選
- China’s WTO Identity Shift: From Developing-Country Privileges to Dual Positioning Strategy
- Hong Kong Reboot
- 1941年5月25日、毛沢東「中国共産党は抗日戦争の中流砥柱(主力)」と発言 その虚構性を解剖する
- 上海協力機構の未来の姿とは