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日本で流行っている「李強首相が習近平思想を排除」という希望的観測
李強国務院総理と習近平国家主席(出典:CCTV)
李強国務院総理と習近平国家主席(出典:CCTV)

日本ではここのところ、何やら「李強首相が習近平思想を排除している」という希望的観測が流行っているように思われる。もちろん、一部の中国評論家の妄想に近い「希望」なので無視すればいいようなものだが、それは「日本人を安心させて、日本のさらなる後退を招く危険性」を孕んでいる。「中国権力闘争愛好論」を放置することは、「真に日本を愛すること」とは逆行するので、真相をご紹介することにした。

 

◆中国共産党「北戴河会議」で”政治的暗闘”勃発と喜ぶ論者

ここのところ、歓迎されている中国論の中に、たとえば8月19日の<中国共産党「北戴河会議」で”政治的暗闘”勃発か…李強首相が国務院全体会議でまさかの「習近平思想」排除の衝撃>というのがある。なんでも、李強首相(国務院総理)が8月16日に開催した第五回目の「国務院全体会議」で、「党中央の精神」を重視して、「習近平」と「習近平思想」を軽視しているというのである。なぜなら、「党」と「党中央」が主語となっていて「習近平」と「習近平思想」が主語になっていないからだという。

この論考の執筆者は、「現在の中国政治を熟知している人ならば、このような表現を目にしただけでビックリ仰天するのであろう(ママ)」と書いているが、むしろ、「党&党中央が主語になっていて、習近平&習近平思想が主語になってない」ことを以て、<李強首相が国務院全体会議でまさかの「習近平思想」排除の衝撃>と短絡的に結論付けることこそ「驚愕に値する」邪推だ。

当該執筆者は、このたびの国務院全体会議のテーマが「三中全会」、すなわち三回目の「中国共産党(中共)中央委員会」の全体会議であることを知らないのだろうか。

テーマが「中共中央委員会」の話なので、当然のことながら「主語」の多くは「党中央」でなければならない。そうしてこそ、中共中央総書記である習近平の決定を重んじたことになる。ようやく、ようやく開催した「三中全会」なので、その決定がいかに重要であるかを称賛することは、「三中全会開催の遅延」という、習近平にとっては好ましくない事実をカバーし、習近平の顔を大いに立てることにつながる。

中国政治のことを熟知していなくとも、「ほんの少しでも中国政治のことを知っている者」ならば、このような勘違い(李強が習近平に造反しようとしているといった種類の邪推)をすることこそ、あり得ないのではないだろうか。

 

◆李強が主催した、これまでの「国務院全体会議」

「国務院全体会議」は会議ごとに「テーマ」が決まっていて、そのテーマに沿った内容の討議をする。したがってテーマによって、「習近平」や「習近平思想」という言葉の出現頻度が異なるのは当然のことだ。

李強が国務院総理になってから開催した「国務院全体会議」のテーマと、李強の発言における「習近平」や「習近平思想」などの出現頻度を一覧表にして図表に示した。念のため中国語の原文を添えて証拠にした。括弧内は筆者が付けた和訳だ。

 

図表:李強が開催した国務院全体会議の日時とテーマと李強の発言

筆者作成

筆者作成


 

図表をご覧いただければ一目瞭然なように、今年3月15日に開催された国務院全体会議のテーマは「習近平の両会における発言」なので、当然ながら、何度も「習近平」という言葉が出て来る。「両会」というのは「全人代(全国人民代表大会)と全国政協(全国人民政治協商会議)」の二つを指す。今年の全人代は3月5日から3月11日まで開催された。

前述したように、8月16日の第五回目のテーマは「三中全会」だ。「中共中央委員会」が主語でなければならない。それでもなお、習近平に関して李強は、

 

 ――改革を全面的に深化させる習近平総書記の一連の新思想、新観点、新論断を深く理解し悟り、党中央のさらなる「全面的に改革を深化させる」ことを断固実現する。

 

という言葉で、習近平を高く崇めるほどの表現を用いている。特に中国語の「领悟」(理解して悟る)という言葉に注目していただきたい。ここは「学習」でも良いはずなのだが、敢えて「悟」という文字が入った「领悟」という言葉を用いたのは、習近平を「崇(あが)め奉(たてまつ)る」ニュアンスを表現したかったからだろう。それが「漢字」の選び方に表れている。

ここまでの習近平に対する崇拝の念を表している李強の言葉に対して、「習近平」という言葉が1回しか出現せず、「党中央」が主語になっていることを以て、李強が習近平に、「遂に反旗を翻した(旗幟鮮明にした)」と結論付けるのは、短絡的というより、完全にまちがっていると言ってもいいのではないだろうか。

 

◆「新産業」を重視する習近平には李強が重要

今年の全人代においても、また三中全会においても、習近平が何としても実現したいのは「新産業の発展」で、この新産業の3本柱の一つに「EV(電気自動車)」がある。

李強は上海市で書記をしている間に、イーロン・マスクを上海につなぎ、テスラの上海工場を定着させるという大功績を成し遂げてくれた。習近平にとっては「商売上手でビジネス感覚に長(た)けた男」として、常にそばに置いておきたい人物にちがいない。習近平の喫緊の狙いは「中国の新産業を発展させることによって、何としてもアメリカに潰されないようにすること」なので、そのためにも李強は右腕として不可欠だろう。

温和で低姿勢な李強は、中国が国家として「商売」をしていくときには、実に適した人物でもある。

 

なんとしても中国崩壊論や中共中央の権力闘争に話を持って行き、日本人を喜ばせようとするのは、ほとんど売国奴的行為に近い。なぜなら、そうやって日本人を安心させている間に、中国は日本を尻目に、そのギャップを埋めようもないほど発展していくからだ。

EVにしても新エネルギーにしてもドローンにしても、中国は世界のトップを走っていて、日本は遥か下の方の底辺を彷徨っているだけになってしまった。

こんなことでいいのか。

6月21日のコラム<Natureの研究ランキング「トップ10」を中国がほぼ独占>にも書いたように、世界のトップはアメリカのハーバード大学でもなければスタンフォード大学でもない。2位と大きな差をつけて、1位は「中国科学院」なのである。

まして日本のホープであったはずの、あの沖縄科学技術大学院大学などは研究ランキングでは500位圏外で、世界から見ると存在していないに等しい。

こんなことで日本はいいのか。

情けないではないか。

李強が習近平に反旗を翻したとして日本人を喜ばせさえすれば、日本の科学技術のレベルが上がり、日本の経済が豊かになるというのであれば、いくらでもその手の中国崩壊論を喧伝すればいい。

しかし、実際は逆だ。

中国の真相を知り、真の実力を知ってこそ、日本は「それならば…」と、何かしらの国策を立てることができるかもしれない(そういう政治家はなかなかいないが、それでも…)。日本国民に警鐘を鳴らし「それなら、もっと頑張らなければ」という気概を日本人に呼び起こすことができるかもしれないではないか。

それが「日本を愛する」ということだ。

それが「日本国民を守る」ということではないのだろうか。

そのために、残されたわずかな時間を惜しんで日夜執筆を続けている筆者としては、このような妄想を日本人に広めていくことに耐え難い痛みを覚えるのである。 

それは日本人を少しも幸せにはしないからだ。

そのことを憂う。

この論考はYahoo!ニュース エキスパートより転載しました。

1941年中国生まれ。中国革命戦を経験し1953年に日本帰国。「中国問題グローバル研究所」所長。筑波大学名誉教授、理学博士。中国社会科学院社会学研究所客員研究員・教授などを歴任。日本文藝家協会会員。著書に『習近平が狙う「米一極から多極化へ」 台湾有事を創り出すのはCIAだ!』(ビジネス社)、『習近平三期目の狙いと新チャイナ・セブン』(PHP新書)、『もうひとつのジェノサイド 長春の惨劇「チャーズ」』(実業之日本社)、『ウクライナ戦争における中国の対ロシア戦略 世界はどう変わるのか』(PHP)、『裏切りと陰謀の中国共産党建党100年秘史 習近平 父を破滅させた鄧小平への復讐』(ビジネス社)、『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』(遠藤 誉 (著), 白井 一成 (著), 中国問題グローバル研究所 (編集)、実業之日本社)、『米中貿易戦争の裏側 東アジアの地殻変動を読み解く』(毎日新聞出版)、『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』、『毛沢東 日本軍と共謀した男』(中文版・韓国語版もあり)、『チャイナ・セブン <紅い皇帝>習近平』、『チャイナ・ナイン 中国を動かす9人の男たち』、『ネット大国中国 言論をめぐる攻防』、『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす』『中国がシリコンバレーとつながるとき』など多数。2024年6月初旬に『嗤(わら)う習近平の白い牙』(ビジネス社)を出版予定。 // Born in 1941 in China. After surviving the Chinese Revolutionary War, she moved to Japan in 1953. Director of Global Research Institute on Chinese Issues, Professor Emeritus at the University of Tsukuba, Doctor of Science. Member of the Japan Writers Association. She successively fulfilled the posts of guest researcher and professor at the Institute of Sociology, Chinese Academy of Social Sciences. Her publications include “Inside US-China Trade War” (Mainichi Shimbun Publishing), “’Chugoku Seizo 2025’ no Shogeki, Shukinpei ha Ima Nani o Mokurondeirunoka (Impact of “Made in China 2025” What is Xi Jinping aiming at Now?), “Motakuto Nihongun to Kyoboshita Otoko (Mao Zedong: The Man Who Conspired with the Japanese Army),” “Japanese Girl at the Siege of Changchun (including Chinese versions),” “Net Taikoku Chugogu, Genron o Meguru Koubou (Net Superpower China: Battle over Speech),” “Chugoku Doman Shinjinrui: Nihon no Anime to Manga ga Chugoku o Ugokasu (The New Breed of Chinese “Dongman”: Japanese Cartoons and Comics Animate China),” “Chugogu ga Shirikonbare to Tsunagarutoki (When China Gets Connected with Silicon Valley),” and many other books.

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